2014/11/04

感じる事と考える事が5050でできたらいいなっていう特にオチのない話



コンセプチュアルアートや大規模な展示会場に行くと、
情報量の多さや難解さに脳みそがついていかず
大げさな表現をすれば
会場のはしっこにあった消化器 床のシミ
母親に抱かれ泣き疲れた顔で眠る赤ちゃんの表情や
「お手を触れないでください」の立て札なんかの方が印象に残ってたりする場合があり、
常日頃から「感じること」に神経を使いすぎてることがわかる。


絵でも彫刻でも、作品に対し「考えるな、感じろ。」などと言うのは体育会系の発言だと誰かが言っていたが、きょう見た作品達ががまさにそれだった。
どれだけ頭を使わないで日々を過ごしているかを痛感した。

そして純度100%で感じることなども、実はできていなかったりする。


なにも描かれていないただの白い絵が飾られていたとする。
わたしは不安になり、まずタイトルを確認する。(感じる事を放棄)
作者がなにを言わんとしてるかを探そうとする。(考える事の放棄)
この絵を意味のあるものにせねばと脳が指令をくだす。
1800円も出して展示を見にきてるのだからと頭の後ろのほうでもうひとりの自分がささやく。
こんなよろしくないパターンに陥る事もしばしば。

展示会場という場所は本当に罠だらけで、
作品と真に向き合うことはなかなかに肉体と精神両方のエネルギーを使う。
あふれかえす人の群れ
話し声と監視員の視線 時間の制限
インターネットで自己中心的に娯楽を得ることに慣れてしまうと、集中力は途絶え、気づけば遊び回る子供や作品の前でいちゃいちゃしてるカップルを眺めてしまっていたりする自分がいる。
その会場を包む空気や観衆を含んだ全体が作品みたいな考え方と感じ方もあるが。
特に大好きなアーティストの作品だとエゴが生じやすくそこまで頭が回らない。

タンブラーや画集などではわからない息づかいや生々しさが展示にはあるが、人気のある作品ほど、生で見にいくと悪いノイズに支配されうまく向き合えなかったりする。

展示に行く事はわたしにとって、感じる事と考える事の訓練のようなものかもしれない。


美しい絵や美しい裸の女性の像は、眺めていると安心する。
美しく、わかりやすく、これは芸術であると脳がOKサインをくだすから。

これはなんだ!よくわからねえ!という作品に出会うと頭が混乱する。
そこから考える事が始まる。
そしてそういったコンセプチュアルな作品を産み出す作者は、そんなわたしを見てニヤリとするのだろうなと思う。



この話、特にオチはないの。ごめんね。タイトルの通り。



※興味ある方はぜひ。展示自体はもう終わってしまいましたが。。



きょうは展示をみてメンバーとアルバムに関して打ち合わせをしました。
ドリアを食べました。美味しかったです。おしまい。


リコ